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A級戦犯と呼ばれた英雄達

ヘランボ・ラル・グプタ(インド独立運動の英雄)

「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」




広田弘毅広田弘毅

石屋の倅から総理大臣へ

広田 弘毅は、外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。

遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、一部を有志がひそかに持ち帰り、松井大将ゆかりの興亜観音(静岡県)に持ち込まれ、1959年に吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。
他にも、靖国神社を始め、サン・ピエトロ大聖堂、殉国七士廟(愛知県)など各地で祀られている。

外交官時代

当初は陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志すようになった。修猷館卒業後、上京し第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。
大学卒業後の1905年に高等文官試験外交科を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。

1907年、清国公使館付外交官補として北京に在勤、その後は三等書記官としてロンドンの在英大使館に赴任。その後、新設された情報部の課長、次長を経て1923年、第2次山本内閣発足にともない欧米局長となる。
次の加藤高明内閣では国際協調を重んじる「幣原外交」のもとで欧米局長として対ソ関係の改善に取り組み、1925年の日ソ基本条約締結により国交回復にこぎつける。
その後、オランダ公使、駐ソビエト連邦特命全権大使を歴任する。

外務大臣から首相就任

1933年、斎藤内閣、岡田内閣の外務大臣に就任。
斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、対ソ強硬意見を抑え、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。

1935年、帝国議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。この発言は蒋介石や汪兆銘からも評価された。
この後、中国に対して、治外法権の撤廃なども議論するようになり、さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。諸外国もこの動きに追随したため、中華民国政府は広田外交を徳とし大いに評価した。
しかし、軍部は衝突が起こるたびに独自に中国側と交渉し、梅津・何応欽協定や土肥原・秦徳純協定を結ばせた。

中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、広田と協議を始めた。
広田は中国側の提案に納得せず、「広田三原則」を提示した。しかしこれは、中華民国側には失望を以て受け止められている。

二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職した。
次の総理大臣に、近衛文麿が推されたが、病気を理由に辞退したので、広田にその大役がまわってきた。広田は拒み続けたがついには承諾した。

就任後は二・二六事件の後始末を行い、また、広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。
具体的には義務教育期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、母子保護法などの法案化を決定した。
そして、日独防共協定を締結している。
これは、英米の東洋圧力が露骨化して来たため、ドイツと結んだ協定である。

1937年、議会で浜田国松と寺内寿一の間で「割腹問答」が起こった。激怒した寺内は広田に衆議院解散を要求、このため広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った。

近衛内閣外相

辞職後しばらくは鵠沼の別荘で恩給生活を送る。
しかし、近衛文麿を首相とする第一次近衛内閣が成立すると、近衛の要請で外務大臣となった。

しかし組閣後間もない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、中華民国との間で戦闘状態が発生。

当初、広田は不拡大方針を主張し、現地交渉による解決を目指した。
消極的な態度は、内務大臣や近衛首相の反感をかっている。

閣議で不拡大方針が放棄された後も、日華和平の動きは続いた。
当初、広田が南京に派遣されるという案があったが、実行されなかった。最終的には元外相・有田八郎を中国に派遣して国民政府との交渉の糸口をつかもうとした。

また駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセン、駐華大使オスカー・トラウトマンを介して事変の解決を働きかけたが、交渉はまとまらなかった。

交渉中止の決定を受け、「国民政府を対手とせず」という近衛声明が発せられる。

支那事変の解決の見込みがないことから、南京に日本の支援で「中華民国維新政府」が設立されたが、蒋介石率いる重慶国民政府との交渉ルートは失われ、和平は絶望的になった。

路線転換を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任した。

その後、第2次近衛内閣成立時に、成立した日独伊三国条約(日独伊三国軍事同盟)には、三国条約が英米を敵にすることとして反対している。



東京裁判

大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。

支那事変当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われ、「事実はその通り」と答えている。

こうした広田の回答から、国際検察局は広田を「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型である」として、「日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」「共同謀議の一端を担った」と認め、訴追対象に加えた。

この結果、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われて起訴された。

広田は公判では沈黙を貫いた。
弁護人の一人であるジョージ山岡が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれについて語ろうとしなかった。

外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も同様に広田に無罪を主張するよう促していた。
にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。

広田の場合は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多くある。

広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。

法廷で広田には死刑宣告が行われた。

オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。

「戦争を止めようとしていた」という印象を国民の間にも強く持たれていた広田に対する死刑判決には、多くの疑問の声が上がった。

占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名が集められた程である。

また、死刑を求刑していたはずの連合国の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事のジョセフ・キーナンですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。

なお広田の妻・静子は東京裁判開廷前に自殺している。
自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。

1948年12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行される。
なお広田は文官であったが、他のA級戦犯同様靖国神社に合祀されている。


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