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ラダ・ビノード・パール

パール判事

ラダ・ビノード・パール

ラダ・ビノード・パール

ラダ・ビノード・パールは、 インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任する。極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。


東京裁判

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パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。

「パール判事は親日家故に日本に有利な主張をした」「反白人のため、欧米に不利な主張をした」という説は事実誤認であり、自身も強くこれを否定している。

また、パールの長男も「(パールは)国際法の専門家として東京裁判を批判しただけであり、日本を擁護することを考えていたわけではない」と2007年に語っている。



パール判決書

パールの裁判における判決書は、英文で1275ページに及ぶ膨大なものであり、全7部で構成されている。

その中で、「裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性」、「侵略戦争と自衛戦争の区別」、「事後法」についてなど述べている。

第六部では「厳密な意味での戦争犯罪の検討。この中では、非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原子爆弾投下を決定した者こそを裁くべきであろうとしている」とし、第7部で「全被告人は無罪である」としている。

また、「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」と記述し、「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」とA.J.ノックの言葉を引用して弁護したベン・ブルース・ブレイクニーの言葉をそのまま判決書に紹介している。

これについて、「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張する人もいる。

ニュルンベルク裁判と東京裁判の違い

合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている」としている。

戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。

戦犯被告による歌

パールの意見書に接し、裁かれた被告が歌を遺している。

東條英機
「百年の 後の世かとぞ 思いしに 今このふみを 眼のあたりに見る」
板垣征四郎
「ふたとせに あまるさばきの 庭のうち このひとふみを 見るぞとうとき」
「すぐれたる 人のふみ見て 思うかな やみ夜を照らす ともしびのごと」
木村兵太郎
「闇の夜を 照らすひかりの ふみ仰ぎ こころ安けく 逝くぞうれ志き」

上記で「ふみ」と詠まれているのがパールの意見書のこと。


原爆慰霊碑碑文

パールは1952年11月、「世界連邦アジア会議」の講演のため広島市を訪問し、4日の公演「世界に告ぐ」で、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」と強く原爆投下を批判した。

また、広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と言う文がある。

パールはこの文を読んだ後、日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との主旨の発言をおこなった。

パールは二度三度と碑文の内容を確かめた後「憤ろしい不審の色」を浮かべて、

「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、"わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ"というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」

「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」

と述べている。

この発言を聞いた本照寺の筧義章住職はパールを訪ね「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文を要望し、パールは「大亜細亜悲願之碑」の文章を執筆した。

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし
大地深く打ち込まれた
悲願は消えない

抑圧されたアジアの
解放のため その厳粛なる
誓いにいのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 真理よ
あなたは我が心の
中に在る その啓示
に従って 我は進む

一九五二年一一月五日ラダビノード・パール


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